唱和47年7月30日 朝の御理解       (末永信太郎)


御理解第53節
 信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。



 真実とあるですね、本当な信者じゃ、と。これは、信心をすれば、ね、もちろん金光様の御取次を頂いて、信心のけいこをさせて頂く、ということですね、信心をすればということです。ね。〇〇教とか、〇〇宗というような、それではないのです。ね、ここで信心すれば、というのは。
 どこまでも、金光大神の御取次を頂いて、信心のけいこをさせて頂く者の事ということであります。目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い。知ったおかげより、知らぬおかげの方が多い、と。私どもが信心しておって、色んなことに出遭いますが、困ったとか、苦しいとか、悲しいとかということに出遭います。ですから、そういうような、その時点では困ったことであり、悲しいことであるけれども、それがおかげになって行かなければならない、そのことのおかげで、と。
 そのことのおかげで、こういうおかげを頂いたという、そういうおかげが受けられるのが、私はお道の信心だと言う。本当に、私どもの思いが浅はかでございますからね、いわゆる、先のことが分からんのですから、仕方がないのですけれども、自分の思うようになることはおかげと思うけれど、自分の思うようになっていない事になりますと、それは困ったことだと決め付けてしまう。ね。
 それを難儀なこととしてしまう。それでも、やはり、信心をさせて頂いて、その困ったことでもお願いをしながら、段々、信心をさせて頂きよると、本当にあのことのおかげでというおかげに、確かになって来るです。ね。そういうおかげの受けられるのが、私はお道の信心だと思います。ね。
 ですから、やはり、分からんのですけれども、やはりお礼を申し上げなきゃなりませんね、神様にお礼を申し上げなきゃならん。それを困った事と思えれる、見えるのですけれども。ね。それを本当におかげにして行くためにも、そのことに対してはお礼を申し上げなければならん。ね。けれども、やはり、困ったことと感じるのですから、感じるそこんところをお願いをして行く訳です。
 昨日の、一時の御祈念の時に頂きました御理解を頂きましても、ね、そのことが素晴らしい、その人の宝と思われるほどしのおかげにみんななっておるということ。ね。昨日の(とばん?)に書いてありましょうけれども、読んでみましょうか。
 病気でおかげを受けた先生のところでは、ね、病人がおかげを受ける。金銭関係で修行した人のところでは、ね、経済面で難儀をしている人が多く助かり、人間関係で修行させられ、これを(くふく?)する、ね、そこを乗り越える。くふくした先生の教会では、人間関係の問題での人が多く助かる。それぞれ、その苦しみを通して、実感を持っての御取次が出来るからである、と。自らの難儀が生きてくる。信心とは、尊いことではある、とありますよね。
 これは、自分の難儀を知りながら、人の、わが身の苦難を知りながら、人の身の苦難を知らぬことという御神戒に基づいての、これは御理解でございました。ね。自分が例えば、根限りの病気をして、もう医者も見放したというような人が御取次を頂いて、おかげを受ける。その神恩報謝を込めて、お道の教師にでもお取り立て頂いたといったような先生のところじゃ、確かにその、病人が助かるのが中心のようですね。
 そりゃもちろん、理屈は同じです。ね。ですから、難儀という難儀は助かりますけれども、自分の難儀を知っておりますから、ね、やはり、同病相憐れむという心が強く、病人で難儀をして、助けて下さい、医者にも見放されました、薬も見放されましたというな人が参って来ると、もう本当に自分のその時のことを思うただけでも、神様への御取次が実感を持って出来るわけです。
 だから、そういうところでは、人が、病人が助かると言う。ね。金銭関係で、例えば私どものように、もう、特別に金銭の関係で難儀を致しました者のところでは、もう、ほとんどが、まあ、それは金銭のことは必ずしもお商売人だけじゃないですけれども、やはり、私がやっぱり商売人だから、商売人が多い、ほとんどが商売人だし。または、金銭のおくり合わせを願うという人たちが多い、まあ、ここの教会の中心を成しておるというようなこと。ね。
 なら、病気は助からんか、人間関係は助からんかということはありませんけれども、難儀のその、難儀ということになれば、みんな同じなんです。ね。もう、死ぬほどに、涙が出るほどに悲しいとか、苦しいとかということになることは、もう、どういう難儀な問題だって、人間関係だってそうです。人間関係のために、クーッとして死んでしまう人すらあるくらいですからね。
 お金がないと言えば、たった五万円なかったために、一家中が心中してあるといったようなことがね、2~3年前の新聞で読みましたが。原因は、ただ五万円の借金が払えなかったからだ、と言う。ね。ですから、もう死ぬほどにとか、その、涙が出るほどに苦しいということになって来ると、もう、その苦しみ、難儀そのもの、まあ、同じことなんですけれども、やはり、わが身の難儀ということを通させて頂いてからのことになりますと、実感がね、出来てくるわけです。ね。
 ですから、やはり自分が病気でおかげを頂いた人んところでは、やはり、これはもう、実にあの、ね、その難儀をした問題で、その周辺に集まる人達も、そういう人達が中心になるです。これやもう、はっきりしてる。それがはっきりしてないのは、まだまだ、そこまでの本当の難儀を克服して、そこに信心になっていない証拠です。これはもう、本当に不思議なくらいですね。
 だから、昨日のこの御理解を頂きましても、例えば、なら病気をして死ぬか生きるかというような、または、金銭のために、本当に一家心中でもせなんごたる苦しい中にあったとか、または人間関係で本当に悩んだ、苦しんだという人がそこのところをやはり、克服しておらなければ駄目なんです。乗り越えておらなければ。ね。苦しいからと言って、信心を止めておればいけない。
 けれども、信心をしておればと仰るように、けれども信心をさせておりますとですたい、まあ、人は助からんに致しましても、そのことがおかげの元になり、こういうおかげの展開を呼ぶことのためのそれであったと気付くほどしに、必ずおかげになります。
 これは、ね、信心すればですよ。ね。金光大神の御取次を頂いて、信心をしてさえ行っとれば、それが必ずおかげの元になる。それが、例えば大きな力ともなるならば、人がそのことで、そういう問題で、そういう難儀で助かるほどしにまでなって来るんです。ね。自らの苦難が生きて来る。ね。
 自分の通って来たその難儀というものがです、生き生きとして来る。そこに、信心の尊さというものがある。しかも、これはもう、絶対のものなんだ。ね。信心しておって、あん時あげなことがなかったら、まちっとマシなおかげが頂けとろう、というようなことは絶対ないです。
 それは、例えば泥棒に盗られたとか、火事が焼けた、ね、焼けて灰になったとか、水で流されたとか、と言うならば、いうようなことですらがです、必ずそれがおかげの元になるです。また、それがおかげにして行けれるのが、金光様の御信心。ね。ですから私どもの過去というものをふり返って見て、はあ、本当にあん時にはあげん不平を言うたり、悲しんだりしよったけれども、あれがおかげの元であったと分からせて頂くところまで信心が進んで参りますと、いや、信心が進んで来ると言うよりも、信心が続けられておりますと、それをおかげであったと、お礼が申し上げられるようになる。
 そうなれば、真実の信者じゃと、こう言ってる。本当とは、真実とある。ね。言うなら、真の信者じゃということ。だから、私どもは目指すところ、そこの本当の信者を目指さなければならん訳です。ね。今朝、私あの、御神前で朝鮮人参を頂いたですね、こう。ちょうど人間の体のようにしてますよね、あの朝鮮人参ていうのは、小さい。だから、私は朝鮮人参ということは、どういうことだろうかと、今日の御理解から頂いてどういうことだろうか、と思わせて頂いたけれども、あれは朝鮮ということは、朝の鮮やかさと書いてありますよね、朝鮮とは。鮮明の鮮。人参とは、人が参ると書いてありますよね。参拝の参。
 だから、その、朝参りをさせて頂いておる、ということだと思います。だから、何が一番素晴らしいか。例えば、あの、今日の御理解を持って、信心が続いておればです、信心が続いておれば、しかも、朝参りが、もう、これは修行ですから、朝参りの修行が続いておればです、もう、これはもう、絶対間違いなくどういう難儀のようであっても、その難儀が元でおかげになるということ。ね。
 そして、それは難儀ではなかったということまで高められてくる。神様の神愛であった、ということが若って来る。してみると、この朝参りをさせて頂いておるということがです、もう、一番素晴らしい、有り難いことだ、と。それは、難儀な問題があって、そのおかげを受けたいから、朝参りをしておるという人もあります。信心の本当な純粋なけいこのために、通うて来るひともありますけれども、どちらにしても、その信心が続けられておるならばです、おかげです。必ず、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになる。ね。そして、知ったおかげより知らぬおかげの方が多いと仰る。今までは知らなかった、気が付かなかったというところに、はあ、本当におかげと分からせて頂くようになる。
 おかげと分かるということは、どういうことかと言うと、有り難いという感謝の心が起きて来るということである。私は最近、家内と一緒に食事をさせて頂くことにしております。もう、そげんあなたんごと言いなさったっちゃ、とてもあなた、ばってん、こげん忙しかつに貴方と一緒にその、ご飯やら頂いとる、そんゆっくりは出けんと、いつも言うておったけど、最近はおかげを頂いてから、修行生の方達やら嫁達がちゃんとしてくれますから、一緒にゆっくり、落ち着いてご飯を頂けるわけです。
 そすと、皆、そのお食事の物を、まあ、運んでくれますよね。そすと、どうもすいません、すいませんて、これはもう、口癖のように家内が言うんですよ。そればってん、お前はすいませんてん何てん言うとは止めなさい、あの、有り難うち言いなさいち私が。(笑)すんませんっちゃ、何かほんなこて相手もね、気のどっかち、なら、お前がそげんスイマセン、スイマセンち言うなら。悪かこっじゃなかもん。ね。
 けれども、やっぱり感謝の意は捧げにゃいかん。だから、お前がスイマセン、スイマセンと言うとを有り難う、有り難うと言いなさい、と。最近では、有り難う、有り難うと言いよります。そして、それを聞きながらですね、度々に思うんですけれども、はあ、本当に有り難うということは素晴らしいことだということです。もう、スイマセンなんかちゅうのは、あれはもう、お詫びと同じこっですからね、これはいけません。ね。それは、ならその、詫びなんとかは詫びなんけん、すいませんち言わにゃんけどもですね、何でんかんでんスンマセン、スンマセンと言うとりゃよかということじゃない。
 有り難うということ。ね。私どもがです、もう、全ての中に有り難う、有り難うと言えれる、言うなら有り難うございます、有り難うございますと言えれる生活。そういう生活が出けたら、これは、いよいよお徳を受けると思いますね。後で分かって、有り難う。あん時には不平不足を思いよりましたけれども、後になって、朝参りの信心がこうやって出けておりましたら、その朝鮮人参の効くこと効くことばさらか。
 朝参りの功徳というものは、大したことですよ皆さん。ね。本当に朝参りの功徳のおかげでです、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるほどしのおかげに生きて来る。ね、難儀が生きて来る。尊いと言やあ、このことが尊い。ね。信心しておればですよ、信心しておられないと、やはり、あん時の苦しいことは苦しいこと、情けないことは情けないこと。だから、いつまでも怨念が残る。ね。
 けれども、私、今日のここの御理解を頂いておりますとです、その例えば難儀な問題が有り難うございますとお礼が言えれるところまでおかげいなる。そのことのおかげで、おかげになって来るから、ね、例えば怨念などというものは残らない。ね。なるほど、こうなれば真実の信者じゃと教えられるはずであります。
 そこで、そこが段々体験づけられて行っておりますとです、今度は、ね、普通で言うならば、これは困ったことだと、ね、腹の立つことだと、例えば思うようなことでも、その場でお礼が言えれるようになる。そうなったら、もう、真実の信者ということじゃなくて、もう、お徳を受ける信心。一時だって神様に不足を持っとらん。その場で、有り難うございます、とお礼を言いよる。ね。
 だから、そこ辺のところが、私は分からせて頂いた人を、肉眼が置いて心眼を開いた人だと思いますね。信心させて頂いて、ね、肉眼をおいて心眼を開けと仰るが、心眼を開けということは、もう、その時点で有り難うございますとお礼の言えれることが、心眼を開いた人の姿です。ね、もうお徳です。
 これはもう、絶対のものなのですからね。信心をすれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い。知ったおかげより、知らぬおかげの方が多いと教えられるのですから。ね。今、私が百の思いで有り難うございますとお礼を申し上げておりますけれども、実を言うたら、二百も三倍もの思いでお礼を申し上げなければならんのだけれど、人間凡夫で相わからずという、そのお礼の足らないところをお詫びせなければならん、お詫びと言うならば。
 自分がいつも不調法ばかりしとったら、それはもう、いつもスンマセン、スンマセンでしょうけれどね。けれども、信心しておればです、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いと仰る。目に見えておるのは、氷山の一角なんだ。その、言うなら根の方がもっと大きいのだ。そこで、人間凡夫で相わからず、ね、百の思いでお礼を申し上げておりますけれども、本当は、まだまだ、千も万ものお礼を申し上げなければならんのですけれども、人間凡夫のことで相わかりませず、相すいませんと初めてそこに至った時に、相済まんが出て来るということになるのです。ね。
 皆さんでも思うてみてご覧なさい。本当に困った問題と思うて、本当にもう、それこそ涙を流して、どうぞここんとこを助けて下さいと言うて、お願いをしたその問題が、本当に考えてみると恐ろしいほどしに、あれも神様の御働きであったと分かる体験がございましょうが。
 私どもは知りません、私どもは分かりませんけれども、ね、例えば私どもの場合なんかは、口ではいつもない命を何遍も助けて頂いておると、こう言います。また、本当にそう思いますけれどね、なら、実感としては、なら、今日まで長生きのおかげを頂いておるということに対する、お礼が本当に言えよるじゃろうか、言えよらん。そこで、やはり、そこにお詫びがいるわけですがね。何回となしに助けて頂いた。
 私は昨日、昨日は敬親会でございました。敬親会、いつもあの、お話させて頂くんですけども。昨日は何か、とにかく頭がぐらぐらするように、何か頭が悪かったから、ちょうど久富さん、家の修行を終わって帰られよるのを呼び止めて、改めて頭を揉んでもらって。揉んでもらいよる時に、ちょっと休ませて頂いた。
 そしたら、お夢を頂いておるのがね、いつも子供んとっから通り慣れておるという感じです、その道が。ね。もう、昔から通りよる。と言うて、その、どこどこと分からんのです。まあ、今から考えると、ははあ、これが信心の道と言うのだろうと、自分で思いました。通り慣れておる道です、子供んとっから、という道。して、そこんところを、こう通りよりましたら、こげなところに、こげなものは今までなかったばってんと思いよるところへ、石のあの、お観音様がお祭りしてある。
 それから、まあ、十軒ばかり離れたところに、やっぱ石のお地蔵様がお祭りしてある。私は、その横をこう通らせて頂いて、お観音様も拝ませてもらい、お地蔵様も拝ませて頂いてから、何げなしに、そのお地蔵さんの頭にちょいと手をかけた。そしたら、ポロッと後ろへ落ちたんです。首が切れてござるお地蔵様じゃった。ね。良うあの、たくさんな、あの、石の仏様なんかに参りますと、首の落てたつを上にちょっと乗せたんだけとがありましょうが、あれなんですよ。
 それが、もう、実際は(目かからんぐらいに?)きれいにこう、折れとるとをですね、ただ上にこう、乗せてあるというだけなんです。ほれで、ちょっと一見したら、首がついておるようにあるのだ。けれども、手をちょっとかけたら、グラッと向こうへ落ちた。だからまた、こう、首を上へあげてから、ほらあ、これは首の折れてござるたい、というところで目が覚めた。
 そして、これは、どういうことだろうかと思うて、それを私は、そのまま敬親会の方達に聞いて頂いたことでしたけどね。久富繁雄さんが、あの、参りはじめの頃、泥の徳、いわゆる、地の徳、ね、を受けたら、地蔵の徳というような御理解を頂いたことがありました。地の蔵と書いてある、地蔵とは。
 久富さん辺りのような性格の方が、本当の信心が段々出けておられて、もう、すでに地蔵の徳を受けておられるのかも知れません、と思うことがありますよ、いろいろね。例えば、痛いところが、こう、触られたらそこが良うなる、おかげを頂く、と。これはもう、お徳ですよね。
 けれども、このお地蔵さんは、実を言うたら、もう、首は切れてござる地蔵さんなわけ。はあ、私も色々思い当たることが、二事、三事あるです、繁雄さんのここ二十何年間の信心の間に。本当言うたら、あん時にゃもう、命がありなさらじゃったのかも知れん。本当は、こういう病気を持っとんなさるならば、もう、今頃はこの世におんなさらんとかもわからん。もし、ここである、信心すればで、信心をしておんなさらんならば、もう、本当は仏様になってなさるのかも分からんと、私は思いました。
 なるほど、これは、なるほど繁雄さんじゃなからにゃ出けんという御用を一途に、まあ、行っておられますけれども、なるほど、そういう御用でもさせておらなければ繋がられんというものをです、私は感じました。昨日、すぐそれを言おうかと思ったばってん、すぐ言うたんじゃ気持ちの悪うなさろうけん、これはね、ここから言うなら、これが御理解ですから、気持ちが悪いどころじゃない、そうどこじゃない、有り難い。それこそ、あれもおかげであった、これもおかげであった。あん時には、実は命がないところを、ね、親先生の御取次のおかげで助かっておったと分かられたら、これからの御用もなお一段と尊いものになるだろうと私は思うから、あえて、今これを申しております。ね。
 何と言ったって、ない命を頂いておるということです。それが、んなら、久富さんで言うならば、朝鮮人参の徳とでも申しましょうかね。朝参りの徳だけではない、もう、久富さんでなかにゃ出けんという御用に本気で専念しておられる。だから、その専念しておられる専念ぶりがです、ね、ない命を助けて頂いておる、その神恩報謝の姿が自分のこの御用であるということに、いよいよなって来たら、俺でなからなきゃ出けん御用ばしよるというようなものが、さらさら無くなって来て、もっともっと尊い御用になって来るだろうという訳であります。ね。改めて、はあ、あれもおかげであったと分からせてもらう。
 今まで知らなかったおかげが、生き生きとして、おかげがおかげとしてクローズアップされて来る、と。ね。時に初めて、それだけのお礼が言えるわけになるのです。ね。それが、日常生活の上に、お礼の神恩報謝の生活が出けるようになるのです。ね。そんなら、それほどの神恩報謝の生活が出けるようになるということは、目に見えなかった。知ったおかげより、知らなかったところのおかげに気付かせて頂いて、それだけ熱いお礼が申し上げられることになりますから、目に見えないところの今度はおかげが、目に見えるところのおかげに育って来るということも間違いありません。ね。
 根が五十の力を持っておるならば、やはり枝になるところに、葉になるところに、花や実になるところも、やはり五十の力のおかげになりましょう。目に見えないところは、おかげを知らん、底の根のないような信心ですから、ほんなおかげがポッとしたぐらいなもんしか頂けんのである。深い、ね、広い、本当にこういうことまでがおかげであった。
 知らんこととは言いながら、本当にお礼が足りなかったと気付くから、そのお礼がいよいよ熱いものになって来るから、ね、おかげの方もまた、熱いおかげに現れて来ることはもちろんのこと。ですから、どうでも信心させて頂いて、いよいよ、今まで気が付かなかったおかげに気付かせてもらい、知らなかったおかげを分からせてもらい、いよいよ、神恩報謝の生活がより一段と、深い広いものになって行かなければならない。ね。そうして、おかげを頂いて行く時にです、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かって来るようになるから、それが真実の信者じゃということになり、それが、また一段と進ませて頂いたら、もう、あれということじゃない。今日只今のこの問題も、おかげであるとお礼が言えれるということになる。すでに、もう、心の眼が開けたのである。ね。
 もう、ここは、それこそ地蔵の徳であり、ね、繁雄さんで言うなら。ね。もう、お徳の世界であります。ね。先生困りましたあ、何が困ったこつの、お礼ば申し上げにゃんじゃんねのお、て私が言うわけですね。ね。それで段々分からせて頂くと、お礼を申し上げねばならんことが分かって来るというわけです。
 だから、即々お礼を申し上げねばならん、と分かる。それを、私は肉眼をおいて心眼を開いた人の、いわゆる生活の姿であると思うのです。ね。そういうおかげを頂くために、もう、何と言うても、お道の信心は朝参りから。いわゆる、朝鮮人参である。ね。
 一生懸命、御祈念をなさる。それこそ、無我夢中で一生懸命、御祈念をなさる。もう、その時ではすでに我がないのである。我情我欲のない一時が、あの御祈念の姿である。その我情我欲のないその心がです、一心である。それを、御理解を頂いて、またいよいよ育てて行くことにならせて頂くのですから。ね。
 朝参りということは、そのような功徳があるもの。また、そのような功徳のあるものと頂かられなければ、朝参りの値打ちはない。しかも、その朝参りの功徳というのは、それこそ朝鮮人参が万病に効くと言われるように、私どもの心の上に、朝参りという知らず知らずの内にどのくらい自養になり、豊かに心が美しゅう、大きゅうなって行くを働きをしておるか分からないということ。ね。
 そういう意味で、改めて朝参りが出けておるということに対しましてもね、今日もやはり、この暗い内からお引き寄せを頂いて、信心のけいこをさせて頂いておるということをです、もっともっと深い、広い意味合いでお礼を申し上げなければならんのじゃないでしょうかね。そのお礼が深うなる、広うなる。ね、伴うて、おかげもその通りのおかげになって来るということは、これは、道理の上から言うても分かりますね。
 あれもおかげであった、これもおかげであった、と。ね。その、もう一つ向こうには、もう、即その場で、それをおかげと頂けれるところまでをお互いの信心の目指しとさせてもろうて。ね。即有り難い。その時、もう、そのことすなわち、それが神愛と分からせて頂くおかげを頂きたいもんですね。どうぞ。